ちゃださんの日記

「アイデア」「アイデア」という言葉が飛び交う業界で、日々試行錯誤しながらひねり出していこうとしているちゃださんの記録(ほぼ日記?)

「言葉の重み」を知ったうえで使うことがなぜ大切か?(映画「ある精肉店のはなし」を見て)

 上司からの勧めで見に行ったこの映画。本日が上映最終日だったようだが、お客さんは20人程度、そのほとんどが中高年の方、という客層だった。

今、食のプロジェクトに関わっていて、食肉加工については文献やWebなどでも調べてきたし、話も聞いた。実際にと畜工場の中も見せてもらった経験もある。そういった意味では「いのちをいただく」ということに対して多少の理解があるつもりだった。しかし、この映画からは、今までの自分の理解なんかただの上澄みでしかないことを思い知らされてしまった。

何が今までのものと違うんだろうか?おそらくそれは、「生活との密着度」なんだろう。自分たちで牛を育て、それを自らの手で割り(魚や鶏は「絞める」というが、牛や豚は「割る」という表現を使うらしい)、皮をはぎ枝肉にし、内臓を洗い、そしてそれをカットしてお客に直接売る。ここまですべてを自分たちの半径数百メートルの中で完結していることが、この映画から伝わってくるものをより濃くしているんだろう。そして本当に淡々と、淡々と流れるような手つきでその工程を行っていく様が、よりその「生活度」との密着度を感じさせる要素になっている。だからこそ、見終わった後に、北出精肉店が提供するお肉に強烈な興味が湧いてきたわけだ。

「生産者の愛情をどう伝えるか?」ということを現在のプロジェクトでは課題にして動いているわけだが、これはもっと真剣に、丁寧に話を聞かなければいけない。そして、その中から抽出した、一番大切な部分をしっかりと受け止めて、引き出さなければいけない。どういう想いで、どういう使命で働いているか。お客に、食べてもらう時どういう気持ちになってもらいたいか。コミュニケーション活動を行う際の情報収集としては当たり前の内容ではあるけど、実は意外と難しい。よくよく考えると「目の前にある料理をただ食べようとしている人に、生産者のことを理解しながら食べてもらう」ことって、なかなかないわけだから。でも、それができれば、その食材はほかのものとは全く立ち位置の異なる「唯一のもの」としての認識ができあがる。それも、情報を押し込むのではなく、すっと自然と知ってもらい、そして共感してもらえるようなやり方で。これこそ、自分の目指したかった方向。やるしかない。

 

映画「ある精肉店のはなし」の監督、纐纈あやさんに聞く屠場「いのちを食べて人は生きる」【Woman's Story】